東北のこれから

2013年12月23日(月) | ボランティア

この連休に女川、石巻へ行って来ました。逗子からもボラバスが女川に向けて出てくれました。かなボラバスと合わせると50名弱の人々と共に!

目的は、ずっと支援を続けている女川の八木純子さん主宰の一般社団法人コミュニティスペース うみねこの事業の一環「女川 ゆめハウス」の開所式。

ここは、女川の高白浜という地区で唯一残った建物(八木さんのご実家の裏に建っていた倉庫)を改築して、地域の皆さんが、そして訪れた人たちが集う所にしようという取り組みのひとつ。母屋は跡形も無く津波に流され、2011年の7月に初めて訪れた時には、まだ壊れた建物がそこら中に残っていたのを覚えています。でも、その倉庫には、ベニヤ板が打ち付けてあり「こわさないで 家主」とペンキで書いてありました。その頃はまだ、このようなことになるとは、八木さん本人も思っていなかったと思います。

その年の夏の盛り、母屋のあった場所の一角にあったイチジクの大きな木は実をつけていました。潮をかぶったはずなのに枯れもせず。その木は、このゆめハウスのシンボルとなっています。今ではそのイチジクの木の周りに、パパチャンズの植えたたくさんの新しいイチジクの木が、こも巻してもらって大切に育てられています。

ここまで、八木さんの活動は、避難所の小学校などで、ママサポーターズとして小さな子どもたちとそのお母さんたちの支援から始まり、お母さんたち支援からお父さんたち支援にまで広がって来ました。目の前にいる人たちの声を聞いて、それに応える。その繰り返し。それを支える、私たちのような遠くの支援者たち。現地での頑張りが無いと私たちは応援を続けることは出来ません。一方的な応援は違う形を生み出してしまうから。その集大成が今回の「女川 ゆめハウス」だと思います。多くの、本当にたくさんの困難を乗り越える彼女を応援しながら、ひとつ上のステージに上がった感じがしました。

開所式は、建築途中のゆめハウスで行ないました。時折雪がちらつく中、女川町長をはじめ、町議会、社会福祉協議会、観光協会など町のこれからも最前線で支える方々と㈱JCBや武田薬品工業㈱など大手の企業、その他たくさんの支援団体の方が、決して便利ではない場所へ「夢」のお祝いに駆けつけて下さいました。

夜は、ホテルの宴会場を借りての大きなパーティが開かれ150名程の出席者がいました。こちらでは、前の開所式でも、そして訪れる時にいつでも美味しい、温かいお料理を振る舞って下さる裏方ばかりのお母さんたちも「主役」となり、おしゃれをして参加。歌を披露して下さったりと楽しんで頂いている様子がとても嬉しかったです。

中でも、獅子舞が来たときは大盛り上がりでした。この地方では各集落ごとに獅子舞があり、何かのお祝い事、またお正月には必ず獅子舞がやってくると聞きました。でも、震災でほとんどの集落の獅子舞の道具は流されてしまい、唯一修理に出していて助かったのが、小乗地区の獅子舞。昨年の5月、うみねこハウスの開所式でもこの獅子舞が来てくれました。この獅子舞を伝承している若者たちの中には、小乗地区の布草履作りのお母さんたちの息子さんが何人かいらっしゃると聞きました。

獅子舞の太鼓が始まると、お母さんたちはバッグからスカーフを出してお尻の下に準備。獅子が出て来ると、そのスカーフを振りながら獅子の前に躍り出て会場は一気に盛り上がります。獅子は激しく、荒々しく舞い、最後には横になって寝てしまいます。そこに、ご祝儀を口に入れたり、お神酒をついで呑ませたりすると、また獅子は舞い始めます。

以前に聞いた所では、お正月に各家を回る獅子に振る舞うご祝儀やお神酒が少ないと、この獅子は何時間でも寝ているそうです(笑)こうして伝承されて来た獅子舞の場面では、いつもいつも裏方に回っているお母さんたち、お父さんたちが輝いて見えました。本当に嬉しそうなその笑顔をぐるりと見回すと、何だか感動で涙が止まらなくなってしまいました。

お母さんたちは、獅子が帰って行くとこう言いました。「どお!いいでしょう〜」と自慢気に。そして、「獅子舞は元気が出るのよ。元気をくれるの。あ〜また明日から頑張らなくっちゃ!!ってね。あんたたちも明日からもがんばんなさいよ〜」

いつも私たちが訪れると「ありがとうね〜たくさん食べて行ってね〜ゆっくりやってね〜無理しないでね〜」と優しいお母さんが、とてもパワフルに見えました。そんな力をくれる獅子舞は本当にエネルギッシュであり、また日本の伝統であり、こちらも素晴らしい伝統に触れさせて頂けた感動でいっぱいになりました。(FBに動画アップします。ちょっと長いけど!)

こうして、たくさんの困難はまだまだあるけれど、それ以上に希望に満ちた東北の夜でした。

きっと忘れられない夜になることは間違いありません。

 

そして、翌日。

今まで支援に行った地区を訪れる予定。石巻の大街道、橋浦地区。

私は2011年5月連休明けに最初に訪れた被災地がこの石巻大街道地区でした。まだまだ自衛隊もたくさんいて重機を使っての作業をしていました。

その頃は、笑顔なんて絶対に見せられない、頑張っても言ってはいけない、写真も撮ってはいけないと思い、緊張して東北に向かいました。そして、戻るまで全て自己管理にて自己完結すること。トイレ、飲み水、食べ物全て自分でどうにか出来る人しか行ってはいけない。そう言う場所でした。

まだ車が突き刺さったままの家が残る地域を1階天井まで水が入ったお宅の泥出し、側溝の泥かきが作業でした。

その緊張の一日の中で出会ったのがYさんでした。帰り際、泥だらけの私に「そんなまま帰るの?庭の水が出るから洗って行きなさい」と声をかけて下さいました。「どこから来たの?」「ありがとう」「必ずここで頑張ってみせるからね」と気さくに、そして明るく話しかけて下さるYさんに、恐る恐る「一緒にお写真撮って頂いてもいいですか?」と聞くと「え?遠くからこんなことしに来てくれた上に、オレなんかと写真も撮ってくれるわけ?」と喜んで応じて下さり、更にかけ声は「頑張るぞ〜!」でした。

その写真を再びお家に届けることが出来たのは、ほぼ1年後の2012年3月でした。周囲は、泥だししたはずのお家が壊されて更地になっていたり、そのまま建っていたりと少々景色が変わっていました。

1階の天井まで泥だらけだったYさんのお家は、キレイに直してあり、突然の訪問にも「上がって上がって!」と喜んで下さいました。

あれから、、、、とお話を伺う中で、調整区域になってしまうかもしれないという不安を伺いました。せっかく家を直して町内会も立て直したくて住んでいるのに出なくてはならないかもと。そして、その時に初めて奥様を亡くされていたことを聞いたのです。5月に元気だったYさんからは、まったく想像出来なかった。知らなかった。「その時」の詳細を話すYさんに涙が止まらない私。同行してくれた八木さんは「1年経って話せるようになったのかも」と。でもこの日を機に八木さんがYさんと繋がってくれて、橋浦での活動で出来た野菜を届け、ご近所に配って頂くルートが出来ました。

しかし、とうとうその調整区域の話しが本決まりになり、来年の5月頃、石巻を出なくてはならなくなったと、本当に本当に元気の無い声でお話をして下さいました。町内会を整理して、仙台に行くも、この家を壊すその日まではこの家を拠点にしたいと。34年前に39歳でこの家を購入して、本当にシアワセで、最高の家を手に入れたと思っていたのに、この数軒後ろは調整区域外で留まれる、津波で最高の家が最悪の家になってしまった、、、と。

でも、女房が生きていたら「いいわよ、出ましょうよ!」と元気に言っただろうな、女房と一緒だったらきっと出れたかもしれないなとも。

いつまでも下向いても仕方ないから、頑張りますよ。とおっしゃっていました。

そして「私が皆さんのようにボランティアしたかったら、どうしたらいいのでしょうか?どこに行ったらいいのでしょう?」と。自分のために、地域のために頑張ろうとして、頑張って来ても立ち向かえない行政の壁に疲れ切った様子を隠せないYさんがそうおっしゃいました。

先の獅子舞のこともそうですが、都会とは違って「地域」で生きることがとても大切なのです。キレイな家になっても、地域の繋がりの無い場所で生きることは大変なことです。地域の繋がりがバラバラになって、新しい場所に行かれるYさんはそれでも自分に出来る「何か」を考えている。。。

そんなYさんのために、私たち外部の人間が出来ることは何だろう? Yさんが動き出した時に、何か出来るといいなと何時でも心に準備をしておきたいと思いました。

 

そして、最後は橋浦地区。北上川海から上流に5キロの地域。まさか、ここまで津波が来るとは。。。と思う地域です。北上川の対岸は、あの大川小学校。2011年6月の活動ではちょうど11日の月命日にあたり、防災無線から放送が流れ、2時46分に対岸に向けて黙祷をしたのを覚えています。昨日も大川小学校に向けて、みんなで黙祷をしました。未だに行方不明の方がおり、涙が止まりません。

まだまだ津波の爪痕、そして津波によって変わってしまったことはありますが、静かにゆっくりと日常をを取り戻しつつある地域です。

何度か訪れている中で、私たちボランティアに懇意にして下さって、家の一角をボランティアが寝泊まり出来るように改築して下さったり、庭を開放して下さったり、一気に何十名もの受け入れを快くして下さるKさんのお宅に寄りました。のべ6000名くらい受け入れたよ〜とのこと。本当にありがとうございます。

こちらのお宅には、絵描きだった私の父が震災の年に90歳になろうとしている自分に出来ることは無いのだろうか?と模索して、お正月を迎える気持ちにもならないだろうけど、来年こそは良い年が来るようにと「七福神」の絵を描いて送らせて頂きました。

それを、玄関から正面の居間の真ん中に飾って下さり、父の一周忌には「お父さんにお供えして下さい。今年取れた新米です」とお米を送って下さいました。家の守り神さまだよ、一生大切にするからねと言って下さいました。父の絵に久しぶりにこの橋浦で会った不思議な気持ち。ありがたかったです。

 

他にも父の絵を送らせて頂いたSさんのお家では、津波で大切なものは全部流された、お父さんの七福神を見た時は涙が出たよ、今のうちでは、この七福神の絵が宝物なんだよと言って頂きました。

絵を送ってからちょうど2年。父は亡くなりましたが、父の気持ちがしっかりと伝わり、絵と共に生きていることが私にとっては本当にありがたいことでした。

 

こうして、今年最後の東北へのボランティアが終わりました。

 

東北のこれから

地域によって、その人によって、必要としている応援の形はさまざまですが、私に出来ることを細く長く続けて行くことだけしかない。

それが、再確認出来た今回の東北でした。

八木さんのパワーによる巻き込み方式に巻き込まれた人々。私もそのひとり(笑)そして、私に巻き込まれたという方々がまた応援して下さる。こうして、出来ることをしながら、見て来たことを発信しながら、来年も東北を応援して行きたいと思っています。

 

 

 

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